一般社団法人 日本写真作家協会 Web写真展  Japan Photographers Association

2013年1月8日掲載





川岸 じろう
Jirou Kawagishi


No.941
1936年 大阪市に生まれる
1996年 サンスター株式会社 定年退職
1999年 全日本写真連盟大阪府本部委員
2003年4月 写真展「下町賛歌I」ミノルタフォトスペースで開催
2006年3月 写真展「下町賛歌U」ミノルタフォトスクエアーで開催
2008年11月   針穴写真展「針穴からのぞいた大阪」中央公会堂で開催
2009年3月 写真展「三宅島その後 明、暗」ニコンサロンbis大阪で開催
2010年12月 写真展「癌とたたかう」ニコンサロンbis大阪で開催
2012年8月 写真展「敗戦の記憶」ニコンサロンbis大阪で開催


現在、全日本写真連盟大阪府本部 フォトフレンズZ支部・東住吉フォトガンバ支部・2003写創支部の3支部を指導。ニッコールフォトコンテスト、JPS展、JPA展、他入賞   全日本写真連盟大阪府本部 委員
  JPA 日本写真作家協会 会員
  PSJ 日本写真協会 会員
  関西針穴写真倶楽部 会員


544-0015 大阪市生野区巽南3-12-1
電話 06-6757-7047
E-mail: k-jirou@gamma.ocn.ne.jp




「あの戦争を生きぬいた」

思えばあの戦争末期、沖縄本島最南端、摩文仁の丘に追い詰められた日本軍は遂に壊滅した。昭和20年6月下旬の事であった。米軍の掃射が日増しに激しくなる敗残兵となった私達は、自決用の手榴弾1個以外に武器はなく、ただ逃げ隠れするのみであった。無数に点在する洞窟の奥深く潜り込んで息をひそめた。

昼間は、上空より爆撃を受け、至近距離の砲艦からも容赦なく火炎放射され恐怖のため洞窟から一歩も外に出られなかった。
夜を待って畑に残ったサトウキビを獲ったり、命がけで米軍の食糧を盗んで飢えをしのいだ。その間にも米軍のパトロール隊に狙撃され、一人また二人と仲間を失ったが、その都度 運よく洞窟に逃げ込み命拾いをした。

冷たい雫の垂れ下がる暗黒の洞窟の中では、40度を超すマラリアの熱に意識朦朧として、「さようなら」と言って腰の手榴弾の紐に指をかけようとしたことが何度もあった。
2か月続いた銃声が突然途絶えたある日、丘の上のスピーカーから終戦を知らされ半信半疑ながら意を決して洞窟を出た。
見上げた空は限りなく青く、きらめく太陽に目が眩んだ。おお、、生きている!
米軍の将校から貰った小枝を杖に摩文仁の岩礁に立つ自分の姿が信じられず夢かと思った。

67年がたって当時の記憶が霞の中に消え去ったが、私の脳裏には摩文仁の丘の素晴らしい光景だけは鮮明に焼きついている。

川岸じろうさんの写真展「敗戦の記憶」を見て新たな記憶が蘇ってきました。
命を大切にした事が良かったと思います。苦しみを乗り越え、新たな繁栄があります。あの戦争を忘れてはなりません、どんな時代にになろうとも平和に生きることが大切です。

二科会写真部 関西支部代表
青木君夫

青木君夫先生

あの戦争を生きぬかれた青木先生は、大正8年生まれの92歳になられます。
昭和15年に広島で陸軍電信隊に入隊され、沖縄に派遣されました。
昭和20年6月下旬戦闘能力を失った日本軍は壊滅し、ほとんどの兵士が亡くなった中で奇跡の生還を果たされました。

命は尊いものです、どんな状況下でも生きることが大切です。
戦後67年になります、戦争経験者も少なくなっています。あの戦争を風化させてはなりません。今の日本がある陰にはこんな苦しい時代があったことを忘れてはいけません。

青木先生は、今もお元気で二科会で写真のご指導をされておられます。私の写真展「敗戦の記憶」を見て頂き色々アドバイスを頂きました。深く感謝いたしますと共に益々お元気でお活躍をお祈りいたします。
平成24年8月吉日
川岸じろう



 敗戦の記憶 後篇   Memories of the defeat - 2

各画像をクリックすると拡大表示されます。Click to enlarge.  
各作品の著作権はすべて撮影者に帰属します。
二次使用は固くお断りいたします。

01 回天発射台
   山口県 大津島
人間魚雷「回天」は日本海軍の特攻兵器として開発された。1.5トンの爆弾を船首に抱え一人で操縦して敵艦に体当たりをする。文字どおり人間魚雷である。昭和19年10月に多くの若者たちがこの基地から発進していったが、成果はあまり上がらなかった。

02 回天トンネル
   山口県 大津島
回天を海に運ぶトンネル。トロッコのレール跡が残っている。

03 魚雷 回転台 人間魚雷回天を海に降ろすための回転台。

04 人間魚雷回天 搭乗員の遺書 山口県周南市大津島 回天記念館蔵。

05 海軍の短剣とベルト 海軍の誇り。大津島 回天記念館蔵。

06 長崎原爆爆心地
   長崎原爆爆心地公園


07 平和祈念像
   長崎市平和公園内
左手は原爆を、右手は平和を指す。

08 長崎被爆時計
   長崎原爆資料館蔵
昭和20年8月9日午前11時2分、被爆により止まった時計。

09 知覧特攻の母 浜島トメの像 富士屋食堂・旅館を経営し特攻隊員から「お母さん」と慕われた。

10 陸軍一式戦闘機
   鹿児島県南九州市知覧町
   平和公園蔵

11 松代大本営地下壕
   長野県松代象山地下壕
「突き刺さったロッド」本土決戦の為、天皇陛下をこの地下壕に移すべく、人海戦術で掘られた。多くの犠牲者が出た。

12 松代大本営地下壕
   「トロッコの枕木の跡」
   長野県松代象山地下壕
終戦時には75パーセントが出来上がっていたが、使われることなく終わった。

13 南風原陸軍病院地下壕跡 昭和20年3月から沖縄陸軍病院として使われた。長さ70メートルの地下壕で、軍医、衛生兵350人、ひめゆり学徒222人が動員された。5月の米軍の猛攻撃で摩文仁の丘に撤退、重病患者には青酸カリを渡し自殺を迫られた。

14 つるはし等、工具類 南風原陸軍病院地下壕跡から見つかった。

15 埋められた薬品類 撤退の時持てなかった薬品を埋めた。南風原陸軍病院地下壕跡から出土。

16 20号壕内 病棟(レプリカ) 通称蚕棚式木製ベッドに直接寝かされていた。ウメキ声と悪臭が充満して地獄の有様であった。

17 20壕内 病棟2(レプリカ) 劣悪な環境の中で看護する学徒動員の女学生。

18 沖縄陸軍病院 蚕棚で横たわる負傷兵たち。

19 「感涙の詩」 南風原陸軍病院地下壕で看護する学徒動員の書いた詩。

20 旧海軍司令壕
   沖縄県豊見城市
米軍との激戦で海兵隊4000名がこの中で玉砕した。

21 「自爆の部屋」
   旧海軍司令壕内
太田指揮官が最後に手榴弾で自爆した部屋。

22 日本陸軍の大砲
   沖縄平和資料館蔵


23 アメリカ軍戦車のキャタピラー
   沖縄平和資料館蔵


24 摩文仁の丘の太陽 昭和20年6月末沖縄は米軍により制圧された。8月に終戦となり、ガマから人々がぞろぞろ出てきた。太陽がまぶしかった。

25 摩文仁の丘 昭和20年7月初旬、最後の激戦地となった摩文仁の丘。沖には米軍の軍艦が黒山のように終結していた。

26 平和公園記念墓地
   沖縄県糸満市
「平和の礎」戦争で亡くなった方々のお名前が記されている。世界恒久平和を願ってやみません。
→「敗戦の記憶 前篇」へ  


Copyright © Jirou Kawagishi and Japan Photographers Association 2013. All rights reserved.